2022.6.20(月)
入間川沿いの遊歩道や智光山公園へ行く途中、大きな観音像が見えます。この観音さまは何だろうなぁ...と、いつも思っていました。
ちょっと確認してきます!
この観音像です!
駅から5分くらいで、すぐ近くです
徳林寺(とくりんじ) 福聚観世音と旗に記載されていた。
観音像の前に、
綿貫家と「西東」の碑
綿貫家は江戸時代の中頃になかり財力を蓄えた豪商で、江戸後期には「西の鴻池、東の綿貫」と並び称されたと伝えれれています。
この碑は、綿貫家十四代目の半平が邸宅内の稲荷社に建てたものです。稲荷社のあった場所は、ちょうど今の中央図書館北側にあたり、現在、碑の建てられている場所からも、比較的近い位置になります。碑には、表裏に各々「西」「東」の文字が刻まれ、その下に次のように記されています。
※下記添付
「西面には、「山が庭の中にそびえている、という粗末な表現で満足しない人は、小嵐の峰と言い表す。風は香り、よく整っている」と文人がその風光明媚な園地を漢詩に詠っています。
「東」面には、「我が家に伝わる山林と田畑については、この碑を最初の標識とし、測量した絵図を新しく作って永年の証とする」と刻まれており、この石碑が綿貫家が所有する広大な田畑と山林の測量絵図の基準点として、安政二年(1855)三月
に建てたものであることを伝えています。
江戸時代は豪商として近隣に知られた綿貫家でしたが、江戸幕府と命運をともにして、巨万の蓄財も消滅してしまいました。その栄華を今に伝えるものは、この碑とすぐ傍らにある綿貫家代々の墓ぐらいなってしまいました。
※この石碑は、綿貫家にゆかりのあった大野家代々の御当主が、受け継いでこられたもので、現当主大野康夫氏より狭山市へ寄贈され、徳林寺・福徳院不動尊境内に建立されたものです。
※下記添付 の記載 ⇩⇩
綿貫家一門墓所
綿貫家は江戸時代、豪商だったということは狭山市HPで見たことがあります。徳川幕府の崩壊とともに衰退した
※以下、八幡神社HPを参照しています
村社 八幡神社 一の鳥居
階段の上に、二の鳥居
手水舎
社殿
「史蹟 新田義貞 駒繋(こまつなぎ)の松」と本殿
駒繋の松
元弘三年五月、北条高塒を打つべく上州新田群生品明神の社頭に挙兵した新田義貞は、五年十日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当八幡宮へ自ら戦勝を祈願した。その戦勝祈願の際、愛馬をつないだ松が本殿東側に残る老樹である。
「駒繋の松」を横からみると、枯れた古木が置かれていた
入間川神社
琴平神社(こんぴらさま)
大鷲神社(市神さま・お酉さま)
摂社・末社
左から、
「痘(もがさ)神社(痘瘡神さま)」「髙良(こうら)神社」「大鷲神社(市神さま、お酉さま)」「甚兵工大権現」「御嶽山(御嶽神社)」
思兼(おもいかね)神社
思兼神社
八雲神社(天王さま)
今日は、ここまで!
今日の歩行時間:1時間30分 2.4km