2023.5.17(水)
今日は小手指ヶ原古戦場までウォーキングします。
9時40分 西武球場駅出発
東京都の水源、東京都水道局管理(狭山湖と多摩湖は連結管でつながれ一体運用されている)
堤防を渡り、
狭山湖ふれあい橋を右方向へ歩く
トトロの森39号地の看板
深い斜面を下った先に39号地の雑木林があります
藤森稲荷神社
「朴の花 諸枝に咲きて 重ならず 勝美」
肥田埜勝美(ヒダノカツミ)さんの俳句
白旗塚(白旗塚土盛修復記念碑)
小手指原古戦場
埼玉県指定文化財(旧跡)
小手指ヶ原古戦場
小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曽(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に、歴史的な合戦のひとつとして、元弘三年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年五月八日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は十一日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは百五十騎ほどであった一行は、進むにつれ沿道の武士を加え、最後は二十万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で三十余回も打ち合いますが、勝敗つかず、入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌十二日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局二十一日に鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、五月二十二日幕府軍の北条高塒らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
誓詞橋(せいじがはし)交差点
誓詞ヶ橋
この欄干の模様、鎧を着て馬に乗った武士、新田軍を模した図柄ですね!
11時48分 小手指駅到着 現在27℃
この後、12時時点29℃、13時31℃。手の甲は汗が噴き出て赤く日焼けしていた。真夏の暑さです!
今日の歩行時間:2時間08分(YAMAP計測) 8.0km