2022.4.14(木)
小手指駅南口前にウォーキング・マップが立っています。「おすすめコース」の赤ラインを歩いてみます。
出発は、マップと逆コース
10時43分 西武球場駅出発
村山上貯水池取水塔
さくら橋
山口貯水池(狭山湖)の堤防へ行きます
堤防を渡ります
山口貯水池取水塔(狭山湖)
堤防の後ろ側の景色
左上に、西武園の観覧車が見えます
ふれあい橋を右方向へ
トトロの森39号地
藤森稲荷神社と全徳寺
アヤメが咲いています。
薄紫のハナダイコン。白はダイコンの花?
「古戦場通り」沿いに建つ、所沢ロイヤル病院が見えます
「朴の花 諸枝に咲きて 重ならず 勝美」
肥田埜勝美さんの俳句
白旗塚土盛修復記念碑
古戦場である小手指ヶ原では、鎌倉時代の末から南北朝時代にかけて何度か合戦がありました。
一番有名なのは鎌倉幕府を倒すために、鎌倉に向かう新田義貞と幕府軍の戦いです。
新田義貞は、現在の群馬県太田市を本拠地とする源氏の一族です。
小手指ヶ原古戦場の石碑の脇の畑の中の細い道を進むと「白旗塚」があります。
新田義貞が、ここに陣をはり源氏のシンボルである白い旗をかかげたという伝承が残る場所です。
※所沢市HPを参照させていただきました。
階段を登ってみましたが、現在は何も無いこんもりとした塚でした
この先に、
小手指原古戦場
この石碑には「ヶ」は入っていない
小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曽(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元禄三年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年五月八日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵をあげます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は十一日に、この小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは百五十騎ほどであった一行は、進むにつれ沿道の武士を加え、最後には二十万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は緒戦となった小手指ヶ原で三十余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌十二日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局は二十一日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、五月二十二日幕府軍の北条高塒らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後にある小高い塚は白幡塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
誓詞橋(せいしがはし)
右の矢印は「小手指ヶ原古戦場通り」、左矢印の道へ入ると「古戦場跡」
国道463号所沢入間バイパスを歩いていると、小手指駅への表示があります。ウォーキング・マップに載っているコースです
案内表示
「小手指駅1.5km」「古戦場0.5km」
ちょっと? かなりかな? 汚れてるけど、読めます!
線路下の通路? 向こうから自転車のライトが見えるけど、下り階段?
「ここは都市下水路です」「このトンネルは水路です」と書いてあります。道路反対側に調整池があるので、豪雨時の水路になっているようですね
12時32分 小手指駅南口到着
今日の歩行時間:1時間49分(YAMAP計測) 7.7km